信太明(しだ・あきら)氏は1968年、福島市で材木会社(銘木問屋)を営む家の長男として生まれた。
いずれ跡を継ぐものと思い込んでいたら、高校生のとき、父親から「自分の好きなことをやれ」と言われた。
いずれにせよ、将来は「経営者」になると決めていた。父親は「マクロに見て伸びる業種を選べ」とアドバイスした。
経営に苦労している親を見て、「在庫がなく、粗利率が高い商売をしたい」と漠然と考えていたという。
大学で
大学は、早稲田大学の政治経済学部経済学科だった。
2年生から、リクルートで広告営業のアルバイトを始めた。「将来起業するなら、まずは営業を勉強しよう」と考えたからだ。
アルバイトから契約社員になり、教育情報誌の企画営業に携わった。
リクルートを1年半で退社
大学卒業後はそのままリクルートの正社員になった。求人情報誌の営業に配属された。
「次は経営の勉強をしたい」と思い、リクルートをわずか1年半で退社した。
コンサルティング会社時代
経営を学ぶためにコンサルティング会社に転職した。1994年だった。
「日本ネットワーク研究所」という会社だった。営業戦略・物流戦略のコンサルティングを担当した。経営の基礎を3年間勉強した。
ABCマート時代
さらに3年後、経営幹部を求めていた靴店「ABCマート」に移った。運営本部長としてスカウトされたのだった。27歳だった。
ABCマートでは経営全般に携わった。チェーンオペレーションの仕組みをつくった。実地で経営全般の経験を積んだ。
5店舗だったチェーンを全国35店舗へと急増させる事業拡大に貢献した。
アウンコンサルティング設立
1998年6月、アウンコンサルティングを設立した。30歳目前だった。以前から「30歳になったら会社を経営したい」と公言していた。
アパートの一室で始めた。千葉県松戸市の一室4畳半の狭い場所だった。町おこし(地域活性化)のコンサルティングを業務とした。コンサルティング事業を選んだ理由は、「人の相談に乗り、一緒に解決策を考えること」が好きだったからだ。
半年間は無収入
だが、脱サラの道は想像以上に厳しいものだった。仕事はなく、事務所兼アパートの窓から見えるガソリンスタンドの看板を眺めて暮らす毎日だった。将来への不安が募った。半年間は無収入だった。
福島へ移転
1998年9月に顧客を求めて出身地の福島市に移転した。その後も、厳しい状況は変わらなかった。
実家の2階に急造したオフィスは冬になると雪かきの仕事もあり、どちらが本業か分からない状況だったという。
地方自治体のコンサルティングを手がけたが、自治体は予算が決まる5月にならないと大口支払いが受けられない。経営を圧迫した。
ホームページ(WEBサイト)制作へ進出
そんなとき、ある中小企業から「ホームページ(WEBサイト)をつくってほしい」という依頼が来る。地域活性化コンサルの看板を掲げる信太にとっては全く畑違いの仕事。しかし、信太氏は制作を請け負った。
「仕事をもらえたのがうれしくてうれしくて。もうお客様のためなら、どんな要望にもお応えしようと思った」という。
デザイナー、プログラマーを活用
デザイナー、プログラマーとSOHOのかたちでホームページ制作業務をスタートさせた。福島市と山形県米沢市に住む8人の技術者がスタッフになった。20社ほどのホームページを作った。
2001年8月に検索エンジン最適化(SEO)業務を始めることになる。きっかけは、ホームページを納品した人材派遣企業からの相談だった。「せっかくホームページをつくったのに誰も見てくれない」という。
信太氏は「検索サイトで上位に表示されるように、トップページを設計すれば、アクセス数は伸びる」と考えた。
検索上位にランクインさせる仮説を実行
では、どんなキーワードを、どう盛り込めばいいのか。「人材派遣」の文字が多ければいいのか。「人材」と「派遣」を分けたほうがいいのか……。
検索上位にランクインさせる仮説を2000ほど考えた。一つ一つ実行しながら検証する毎日を過ごした。あくまでホームページ制作の一環として提供するサービスであり、料金は請求しなかった。
アクセスが殺到
1カ月後、顧客のホームページは、紛れもなく検索サイトの上位に表示された。アクセスが殺到するようになった。
その後も試行錯誤を繰り返す中、「どうすれば上位表示されるか」のノウハウをつかんだ。手応えを感じた信太氏は、本格的な事業化を決めた。
こうした取り組みはSEOと呼ばれており、当時、アメリカで流行していた。しかし、日本ではほとんど知られていなかった。信太氏自身もSEOという言葉を知ったのはその半年後だった。調べると、全米に300ほどのSEO事業者が存在した。
「それだけあるなら、日本でもビジネスになるはず」と確信したという。
福島から単身で東京へ戻る
2001年、東京の賃貸マンションに単身赴任した。「1度しかない人生なら、東京で勝負しよう」と心に決めた。
火曜日から金曜日まで東京に滞在し、営業に邁進した。当時、社員は2人だった。
「胡散臭い」と門前払い
しかし、飛び込み営業を掛けても、「胡散臭い」と門前払いになる日々が続いた。SEOは前例のない事業だけに、顧客確保に苦労した。
営業先の企業の担当者から「そんな(検索結果上位に表示される)ことが出来るわけない」など、詐欺呼ばわりされることもあった。
「日本では事業にはならないかもしれない」と弱気になったこともあったという。
人材派遣会社に絞って成功
その後、まずは人材派遣会社に絞り、「人材派遣」での検索順位を資料にまとめ、業界の100社ほどにメールを送った。
「あなたの会社の検索順位は○位です。アウンコンサルティングの指導で上位になり、実売にも結び付きます」という内容だった。
その結果、「今すぐ来てくれ」など、10%以上の企業から素早い反応があった。
口コミで評判に
事業が軌道に乗り始めたのは2001年の秋からである。
「アウンコンサルティングのコンサルティングを受ければ、本当に検索エンジンで上位に表示される」という評判が口コミで広まった。
信太氏は、最先端の情報を仕入れるため、年に何度も米国に足を運んでコンファレンスに参加した。そんな努力もあり「検索エンジン対策で、最も詳しい会社」という評価を受けるようになった。
時代も味方についた。コンピューター雑誌が続々と「検索エンジン対策」を特集するようになった。世の中に注目されるようになった。
2002年になると、SEOは一気に認知が高まり、顧客は急増した。
SEOビジネスのパイオニアに
2002年5月には、会社と家族を福島から呼び寄せた。2002年以降、売り上げは倍々の勢いで順調に伸びた。
日本におけるSEOビジネスのパイオニア的存在として知られるようになった。
2002年夏の米国視察で、新しい商売のネタを仕入れた。現地で目にしたのは、検索されたキーワードに関連した広告を出す「検索連動型広告」の爆発的な広がりだった。
検索連動型広告は、検索エンジンに入力されたキーワードに対応したテキスト広告を表示するサービス。広告は、検索結果の画面に表示される。
広告主がキーワードごとに入札額を決めておき、高額なものから上位に表示される。オークションで1クリック当たりの広告掲載料金が決まる仕組みだ。
検索エンジンの広告代理店に
「これは本物だ」と感じ、2002年12月末、キーワード連動型検索エンジン広告の代理店業務をスタートした。
2002年5月期の売り上げはホームページ制作を中心にした3500万円だったが、2003年から急増。すぐに検索連動型広告が売上高の9割を占めるようになった。
キーワード選定や、広告文書などのコンサルティングを行った。高付加価値のSEMとして提供できるのがアウンの強みとなった。
検索連動型広告とSEOを組み合わせて、差別化を図った。
初期のSEOサービスの内容
SEOサービスでは、サイトを詳細に分析した「SEOカルテ」にもとづき、検索結果の上位に表示されるキーワードを決定した。
表示の好位置をキープするために、定期的にアルゴリズムを解析して対応を図るチューニングを行った。
2003年の時点でアウンコンサルティングが扱っている検索キーワードは約400だった。顧客は上場企業やIT(情報技術)ベンチャー企業を中心に約90社だった。
2005年の時点では、国内でSEOを外注しているサイトの6割近いシェアを握っているという推計もあった。
グーグル(Google)
検索連動型広告サービスでは、大手であるオーバーチュアとグーグル(Google)の代理店になった。
代理店手数料と、広告出稿会社からのコンサルティングフィーを獲得するビジネスモデルも確立した。
さらに、キーワードによって、消費者が何を買ったかを追跡する「ROI」という効果測定コンサルティングも手掛けた。
社員の増加
マンションの一室で始まった会社だったが、事業拡大に伴って、創業からわずか7年で5回の引っ越しをした。
2004年に20人だった社員は2005年には70人に増えた。2005年春は新卒採用も始めた。
上場(2005年)
2005年11月9日に東証マザーズに上場した。
上場2日目に付けた初値は、公募価格40万円に対して3.2倍の128万円だった。
上場の時点では、検索広告を中心とする検索エンジンマーケティング(SEM)が主力だった。
上場時点の売上構成比は、SEMが「9」に対して、SEOは「1」だった。
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